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ホーチミンの情報

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チャム族の歴史のSummary

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参考はすべてネットからの情報で、学術的に正確だとは言えません。
ミャオ族(苗族)(miáozú) は、中国の国内に多く居住する民
族集団である。
同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベト
ナムなどの山岳地帯に住んでいる。ベトナムではモン
( H'Mông)という。
ミャオ族は、漢族とともに紀元前14000∼紀元前1000年頃に
長江文明(稲作文明)を起こした。
中国春秋時代(紀元前770年∼220年)と三国志時代(180年∼
280年)に中国の国土が乱れ、ミャオ族は漢族に圧迫され、一
部は海流に乗り日本に稲作文化、青銅器、鉄器を持ち込んだ。
この時期が日本の縄文晩期∼弥生早期の稲作の開始の時期にあ
たる。
この中国混乱期に、中国南部にいたキン族(古越人)、チャ
ム族、クメール族も南下を始め、ベトナム、カンボジア、ラ
オス、タイ、ミャンマーに移動した。
チャム族とクメール族は海航術を身につけ、商船を作って中
国と南インドの交易で活躍した。
紀元前320年、ギリシャ、マケドニアのアレクサンダー大王
がペルシャ(現在のイラン)を破り、中国上海からペルシャ
湾までの「海のシルクロード」と呼ばれる海上交易ルートが
完成し、東西交易が始まる。

その頃、航海術と船をもっていたチャム族とクメール族は、
ギリシャ、ローマ、インド、中国との中間交易で莫大な利益
を得た。
この時代(12世紀前後?)に、アンコールワットやチャン
パ王国の遺跡がたくさん作られている。
特にベトナム中南部のチャンパ王国(192年∼1832年)は、
優れた航海技術を持ち、中継貿易港、交易国家として繁栄し
た。
4世紀にインドのヒンドゥー文化を取り入れ、7世紀に中国か
ら仏教が入り、来航するイスラム商船の寄港地であったため
13世紀にイスラム教を受容した。
また香木、象牙、犀角など高級輸出品の産地であり、この
交易で莫大な利益あげ、チャンパ王国は繁栄した。
王室は台湾や琉球(沖縄)から妃を迎え、新しい血を王家に入れてい
る。
日本の貿易船(朱印船)が交易の場として、しばしばチャンパの港を
選んでいる。中国の明が日本との交易を禁止していたため、チャンパ
の港に来ている中国商船との交易を行っていた。
チャンパ王国はクメール王国、中国、北部ベトナムとの抗争を続けるが、象の戦車を中心とした軍隊でその勢力を維持し、6∼
13世紀に最盛期を誇った。
交易国家、商業国家は異なる民族、異なる宗教に対して寛容である。
他の例として、イタリアのベネチア国がある。地中海でイスラムとの東方交易で莫大な利益を出し、繁栄していた。
そのためイタリアは植民地を持つ必要がなかったといわれている。
この時期、 ヨーロッパのキリスト教国は十字軍を組織し、イスラムと戦争ばかりしていた。
こうした歴史的、民族史的背景から、チャンパ王国はヒンドゥー教、仏教、イスラム教、キリスト教など多くの宗教を受容した
と考えます。

H.H様より



HCM市内の道の名前の由来

Le Loi 通り画像
Le Loi 王の銅像は、1区には無く、3 thang 2通りとHong Bang通り、6区と11区にまたがる交差点にあります。
Le Loi (黎利=1384年---1434年)は貴族の3男で、中国明朝の支配を打ち破り、黎朝を興した英雄です。
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王に就いては、Ho Hoan Khiem(ホアン キエム=還剣)の有名な物語があります。
Le Loiは知り合いから、剣を譲り受け、この剣で明朝の敵を撃破しました。
ある時、ホアン キエムの湖で舟遊びをしている時、大きな亀が現れ、その剣は天の宝剣であるから返しなさいと言う。王はお礼を言って宝剣を返すと亀はそれを口にくわえて、湖深く帰っていったという。ハノイに行けばホアンキエム湖を是非見学して下さい。王の銅像もあります。
HCM水上人形劇場でもホアンキエムの物語が上演されています。
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レイロイ通りは、起点が市民劇場で終点がベンタン広場に立つTràn Nguyễn Hãn将軍の像です。
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Trần Nguyễn Hãn将軍はLê Lơi王を助けて、明の大軍を撃破、撃退させた忠臣です。
引退後、部下に讒訴され捕獲にきた船の上で、祖先に祈祷し火を放って船もろとも憤死を
遂げる。天は無実の者を照らすと言い残して。
手に持つ鳩に何を託そうとしているのか?無実の罪で死を遂げる憤怒を後世に伝えようとしているのでしょうか?
この像の前に<烈女Quách Thị Trang>の像があります。15歳でデモ行進中射殺された少女です。全国民は彼女の死を痛み、これを永遠に忘れないために像を建てると共に、この広場をQuách Thị Trang広場と呼ぶことに決めました。






ホーチミンのブランドのサンダル屋
BITISというサンダル製品です。昔からありました。ベトナム人のブランドとして丈夫で手ごろの値段です。私はよく動きますのでいつもここでサンダルを買いました。ベンタン市場から1分だけです。LELOIどおりにあります。

店の名前は BITIS です。
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ホーチミンの観光名所の歴史
統一会堂 (Dinh Thong Nhat)
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この建物の名前は、1975年4 月30日ヴェトナム戦争が終わり、南北の統一が出来て皆が集まる会場として<統一会堂>と名付けられました。
現在は、国賓の人達との会合に使われたり、一般の観光客に開放されて、当時の歴史的遺品の数々が見られるようになっています。

現在の建物は、1966年に再築されたものです(建後47年です)

1873年最初の宮殿が建てられました<ノロドン宮殿>です。
1945-1954年の間は<独立宮殿>と呼ばれました。
フランス植民地時代は、フランス総督の私邸として使いました。

1955-1975年 南ヴェトナム大統領府及び私邸として使庸しました。
1954年Dien Bien Phuの戦いで、フランスは敗北。ジューネーブ協定でフランス軍
はヴェトナムから撤退、以降<ヴェトナム共和国>が成立し、南ヴェトナム政府の大統領府として使かわれたのです。

大統領執務室の横には秘密の扉があって、直接地下まで避難出来、同じく秘密のトンネルで逃走出来たと言われています。
地下には、作戦司令室がありました。上の階上は大統領の私用に使われ、試写室、ダンス室、ゲーム室等があります。

この間一番話題になったのは、Ngo Dien Diem大統領の時代です。
Ngo兄弟は、アメリカの後ろ盾もあって、Bao Daiに替わり南ヴェトナムの大統領になりました。兄Diemは大統領、弟Nhuは最高顧問で秘密警察長官の要職です。兄弟で大統領府を自由に動かしました。

1962年部下の軍人による宮殿への爆弾投下事件が起こりました。2人共命拾いしましたが、宮殿は大破、使えなくなりました。(再築する事になり1966年完成)
親類、縁戚の採用、登用、仏教界への弾圧(1963年仏師Thich Quang Ducの焼身自殺、15歳小女=Quach Thi Trangのデモ参加中での射殺事件=ベンタン広場に銅像があります。直ぐ後ろにはあの有名なTran Nguyen Han将軍が鳩を手にした銅像もあります)で世界からの非難の中で、部下の軍将校に暗殺されました。
1963年11 月2日兄弟で車でチョロンのCha Tam教会に逃げ込んだのですが、部下の軍の将校に捕まり、装甲車の中で2人共射殺されました。地下の写真展示場にその写真もあります。
奇しくも、アメリカ大統領ケネデイも1963年11 月22日暗殺されました。
(当初ケネデイはNgoを助けましたが、最後は余りの暴君に助けなくなりました)

宮殿の屋上に上がると、真正面に大きな通りが緑の木立の間に伸びています。
この交通りを<Le Dung>通りと呼びます。ホーミンミン亡き後を継いでヴぇトナムを導いた指導者です。皆はと呼びます=2番目の兄です。
勿論一番目の兄は=ホーチミンです。

1975年4 月30日、北ヴェトナムの戦車が正面の門柱に乗り上げました。この一瞬に
南ヴェトナム政府は崩壊、世界中の人々が衝撃のこの写真をTV,雑誌で見ました。
南北が統一した瞬間でした。